花 鳥 風 月 6

「これは・・・・・・。」

 二人の少年が紡ぐ、あたかも歌っているかのような呪の唱和を耳にし、博雅は絶句する。宮中において青年より上の年齢の歌声、もしくは殿上童の幼い歌声を聞く事はあっても、女人ような高い声の歌のようなものを耳にすることは初めてだったからだ。庶民はともかく、貴人の女性が歌を歌うことは愚か大きな声を出すことなどもっての外とされた時代。普通の貴族ならばここで眉をひそめよう。だがこの男、一般的な貴族とは異なる故、まるで魂を抜かれたかのように歌声を聴いていた。

 紅蓮の事を「非常に美しい声の持ち主。」と博雅に賞しただけあって、乗垂は目を細めてその声に聞き入っていた。

 そのうち紅蓮の詠唱が終わり、和琴の前に座る。時行は少しばかり和琴と唱を合わせると、次に緩やかな上下の動きを加えながら円形に踊り始めた。いつ装着したのか、時行の指には小さな鈴のついた指環のようなものがはめられていた。それが和琴の音の間を縫って、涼やかな音を周囲に放つ。

 時行の踊りが幾周かし始めた頃、彼が描く円形の中心から同心円状に何かが同じ方向に動いていることを、乗垂が感じ取った。周回遅れで博雅がそれに気がつく。

 時行にまとわるようにして踊っている者達は、ここに祭られている子等だった。分かっていなくともそれを感じ取った博雅に気がついた時行は、人の心を揺さぶる楽を奏するだけのことはあるな。と思った。それと同時に余計なお世話だなと心の片隅で思いつつ、その少し偏り気味の感受性の強さも心配した。

 時に舞いも織り交ぜ、徐々に踊りに変化をつけていきながら、時行は舞踊を続けていく。二人の少年は、途中深谷寺の結界の内外を往き来する子供の霊や妖かしの気も感じ取ったが、構うことなく自分達の仕事に専念した。結界内の動きは乗垂も感じていたらしく、時折視線があらぬ方向に向いていた。博雅は心のままに目の前で繰り広げられる光景に浸りきっていた。

 やがて紅蓮が再び和琴の手を止め、緩やかに動き続ける時行の近くに立つ。それを認めた時行は少しずつ動きを静止させていき、二人で先程の呪とは異なる呪の詠唱を始めた。

 呪の詠唱が終わった途端、時行はその場にへたり込んだ。上気した頬に、柔らかそうな髪が幾筋も汗で張り付いている額、上下する肩に所々色の変わった衣。それらが動く量の多さと激しさを雄弁に物語っていた。そんな時行の頭がぐしゃぐしゃと乱暴に撫でつけ、紅蓮が労う。それから被衣かつぎを差し出す。が、時行がそれを取るよりも早く動く手があった。そしてその手の持ち主の、被衣を持たぬ反対側の手が時行に差し出される。

「重信に聞いたのと大分話が違うな。そうであろう?二十三夜ふみやす殿。そしてそちらは紫石殿か?」

 博雅に差し出された手をやんわりと押し戻し、自力で体勢を整えた時行は平伏する形となる。傍らにいる紅蓮は立ったままだ。

わたくしの名は紫石ではなく、紅蓮にござりますれば。」

 溜息を混じえたような声を聞き、博雅が紅蓮の方へ目を向ける。流石氷晶殿が一目惚れするだけあるなぁ。等と頭の片隅ぼんやりと思いながら、暫しその紅蓮なる青年の全体像を瞳に収める。殿上人に対し、不快感も露わに紅蓮が「何か?」と尋ねる。慌てて乗垂がその態度を諌める。懲りないのか聞く気が全くないのか、紅蓮はその諌事に対して意を介さなかった。そして乗垂の方に身体ごと向き直る。

「貴族を近づけてくれるなとの約定、違えないで頂きたい。」

 静かな声だったが、その声に滲む負の感情を感じ取り、何事かを言おうとしている乗垂を制し、博雅は声を掛ける。

「何故そこまで毛嫌いするのだ?教えてはくれまいか?」

 女性が見たらどれほど羨ましがるだろうかと思わせずにはいられない、真っ直ぐで豊かな烏の濡れ羽色の髪を陽光の中で翻し、紅蓮は博雅の方を向く。先程とは変わり、自虐的な感情がその双眸そうぼうに宿る。

「下賎の者と下げずむのであれば結構。なのに何故関わろうとする?それで分からなければ、月想寺がっそうじの紅蓮が何者であるか、宿直の日にでもお聞きになればよろしいかと。」

 ふいっと三人に背を向け、紅蓮は和琴を置いていた方へと戻る。時行は博雅の手から被衣をするっと抜き取ると、それを手に紅蓮を追いかけていった。

「月想寺?」

紫英寺しえいじのことでございますよ。そこの《物》なのですよ、彼は。問えば水尾様にも所在は露見する事でしょうが、はてさて。」

 乗垂が博雅の独り言を拾い、意味深な言葉を残して二人の少年の方に歩んでゆく。

 紫英寺は、博雅の認識では祈祷や祓いで赴く貴族がとても多い。であった。博雅自身が行った事はまだないので、思い返せる限りの記憶をまさぐり始めた。家人の中でも行ったという者は聞いた事はなかった。そこに行く貴族が多く、聞きたくなくても耳に入ってくる内裏、特に宿直において一度たりとも噂になったことがない。あれだけのかおをして、絶賛されるに値する声や歌唱の技量を持っているのにも関わらず、にだ。それについて乗垂は、様々な事情がありましてのぅ。とだけ言った。それから何故紫英寺とは言わずに、月想寺という別称を態々使ったのか。今の博雅には判らない事だらけだった。

 ふと顔を上げると、紅蓮が和琴を持って橋の手前まで移動し始めていた。橋を渡る自信が全くない博雅は、慌てて彼等に合流した。

「置き去りには致しませんよ。面倒だから。先ずは乗垂様から。」

 安心させた言葉の後に、しっかりと本音を付け加える紅蓮。そこで乗垂は叱るのだが、やはり聞く気はないようだ。それから乗垂の手を取る前に、和琴を足元に置こうとした。被衣をしている時行を横目に、手が空いているなら手伝えばいいものをと思いつつ、博雅は和琴を持とうとしてそれを手にしようとした。その瞬間、手首と手の甲に同時に強い力が掛かるのを博雅は感じた。

「時行!こら朱蝶!」

 紅蓮の叫び。その手には和琴はなく、その手から生まれるかの如く朱色の物体が空に吸い込まれるようにして消えた。後には博雅の手の甲と、その手の手首を掴んだ時行の手の甲に、何かに弾かれたような傷だけが残った。

「アレは、人見知りの激しい付喪神です。自分以外に懐かないから誰にも触ってほしくなかったのですが・・・・・・。先ず戻って手当てをしましょう。」

 がっくりとこうべを垂れ、三人を向こう側に渡すと紅蓮は足早に本堂の脇に戻った。少し遅れて三人が到着すると、紅蓮の他に博雅の供がいた。

「殿。手当てをされましたら早う下山致します。よもや今宵の宴の件・・・・・・。」

「お、覚えておる。してもうそのような刻限か。」

 動揺しているので全く言葉に信用がないのだが、従者は敢えてそれは不問とした。その間に博雅の手は取られ、ぬるま湯の中で傷を洗浄されると、それを乗垂が拭い取り、時行は懐から取り出した塗り薬を丹念に擦りこんだ。そして白い布を巻いてゆく。

「暫くしたらお取り下さい。」

「有難う、二十三夜・・・・いや、時行殿。」

 いいえ。と言って顔を伏せた時行。主と時行のやり取りを見聞きしていた従者が、突然怒り出した。

「名もまともに名乗らなかったのか?卑下の者とはいえ失礼ではないか!?それとも何か?名も名乗れぬくらいやましい事でもしておるのか?」

 実直な主よりも率直過ぎる従者は、すぐさま博雅に諌められた。青菜に塩とばかりにしゅんとなるが、主に嘘をつかれていたようで気分が悪いと言いたげな表情は変えなかった。

「名は、橘蒼実時行と申します。薬園生として典薬寮に在籍しております。貴方は?」

安岐あきだ。よろしく。」

 そう言って感情の起伏の激しい従者、安岐は怪我をしていない方の時行の手をぎゅっと握った。それに応えるようにして、時行はそっと握り返した。すると安岐は手を放し、にかっと笑って立ち上がった。

「それでは博雅様。参りましょうか。皆様お世話になりました。」

 ぺこっと頭を下げると、安岐は博雅を促して先に外に出し、再び頭を下げて戸を閉めた。

 ――そろそろ日が暮れる。

 日が暮れてしまう前にもう一人の従者が待っている場所へと急ぐ博雅と安岐。先を行く安岐の背に、博雅は声を掛ける。

「先程は何故あのような態度を取ったのだ?失礼であろう。」

 諌めるというよりは少しばかり拗ねたような声で博雅は問う。すると安岐は歩く速度を少し落とし、一度博雅の方を振り返ってから言った。恐らく殿は見ておられなかったとは思いますがと前置きをして。

 博雅が名を言い直した時、紅蓮が物凄く「しまった。」という表情をしていたことと、博雅に対して嫌悪の眼差しを向けていた。自分の主人よりも明らかに身分が低いと思われる者にそんな態度を取られる所以ゆえんはないと感じたから、あのような行動を取ったまで。そう安岐は説明した。

「それにしてもあのような態度はないぞ。それから紅蓮殿はどうやら貴族を嫌悪しているようなのだ。」

「その彼から、〈言い訳〉なるものをお預かりしております。何でも水尾様から逃れる為にお使い下さい。とのことでした。中身は分かりません。何かあってからだと困りますので、宴の後にお渡しいたします。」

 そう言って預かった物をちらっとだけ見せると、安岐は先を促した。本当はその布にくるまれた物の中身が何であるか、安岐は事前に知らされていた。そしてその中身故に事前に釘を刺したのだった。

 待っていた従者と合流した博雅と安岐は、一番星がきらきらと輝きを増し始めた為、家路へと急いだのだった。

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